2017年12月2日、三重県総合文化センターにて「左官フォーラムみえ2017」を開催しました。
200の客席が満席となる中で幕を開けた、前半では、建築家の大室佑介さん、左官の久住章さん、デザイナーの松場登美さんに、それぞれの立場から左官についてお話していただきました。
後半では、コーディネーターに宗教人類学者の植島啓司さんをお招きし、左官の未来について語り合いました。
まず、主催者の左官フォーラムみえ2017実行委員会の杉本が開会のご挨拶をし、10月にVOLVOXで行った展示と今回のフォーラムを開催するに至った経緯について説明しました。
「テーマは『土の壁に学び、遊ぶ』。色んな立場から左官についての意見をいただき、左官の未来について考えたい」
という投げかけから、3人の登壇者による基調スピーチが始まりました。
大室佑介さん
登壇者の中では一番若手の大室さん。建築家の立場から左官についての話をしていただきました。建築を学び始めて15年経っている大室さんですが、実際左官に触れる機会はなかったそうです。
そこで、左官の性能について調べていくと、左官の次のような性能が浮かび上がってきました。「防火性能:良いらしい、湿度調節:良いらしい、蓄熱性能:良いらしい、構造強度:あまり良くないらしい、断熱性能:あまり良くないらしい、価格:少し高くなるかも、時間:少しかかるかも」。最後の「時間がかかる」という性能は、機械化・工業化を押し進めてきた20世紀の近代建築と相性が悪い、と大室さんはいいます。
近代は、都市・街を作るために設計をします。建築は時間が読めるように作らなければいけないというのが世界の流れでした。1935年(昭和10年)頃からドイツのトロッケンバウ(乾式構法)が日本に入って来ます。塗り物を使わないこの工法は、あっという間に日本中に普及します。大量生産品をいかにして使うかという建築の流れの中、時間が読めない左官は、近代建築と相性が悪いものでした。
しかし、21世紀の現在、都市が成熟し、建築に時間をかける人も増えてきました。「今世紀では、左官は、時間を乗り越えて、やり方しだいではどうにでもなる、フレキシブルで素晴らしい素材になりつつあります」
特別展「左官×実験」の展示を任されるまで、左官に触れる機会がなかった大室さん。この展示の仕事は「左官の知識がない人間が、どうやって左官の魅力を伝えるか」という実験だったといいます。展示物にキャプションや解説文を付けない展示方法で、左官で使われる物や道具の存在感、面白さをシンプルに伝えたかったそうです。
「左官というのは仕上げや素材などではなく、「物と物」「物と人」「人と人」などが出会って起こる「出来事」のようなものである。むしろ、人類の「営み」に近い。左官の職人が減少し、左官の仕事もなくなってきているけれど、左官が文明であり、出来事であり、営みである限りは、左官はなくならない」と。
「このフォーラムの後、左官が流行になって広まっていくというよりは、もっとひっそりと閉じこもって、どんどん数が減っていって、それでも残って行く…その時に営みとして、文明としての左官の本領が発揮されるのではないかと、勝手ながら思っています」
展示の経験を通して感じとった、大室さんの左官への思いで、スピーチは締めくくられました。
松場登美さん
津市芸濃町のご出身である松場さん。世界遺産となった島根県大森町のこと、「石見銀山生活文化研究所」のこと、たくさんのお写真と共に紹介していただきました。
「私の人生には高い壁、厚い壁が立ちはだかっていました」
この言葉で、松場さんのスピーチは始まりました。
人口400人を切った島根県大田市大森町。かつて石見銀山で栄え、2007年に世界遺産に指定されたこの町で松場さんは暮らしています。この小さな町で「石見銀山生活文化研究所」という企業を立ち上げ、世界標準になるような「ライフスタイル産業」を育てるための様々な取組みをお話していただきました。
社屋を作るために1000坪の土地を購入、8年もの歳月をかけて周辺の土地をまず整え、その後、石州瓦の美しい現在の社屋を作ったそうです。そんな松場さんの活動に賛同して、都会から若者たちがやって来ます。彼らは一緒に田んぼを耕し、収穫を共にし、茅葺きの屋根を葺き替える。「人間が美しく生きるために生み出したものは『宗教と哲学と芸術』。かつて、生活の中にすべてあった。それを取り戻したい」松場さんはいいます。
1789年の創建の武家屋敷を買い取った時には、周りの人皆に反対されます。10年間改修を重ね、「暮らす宿他郷阿部家」という宿に。松場さんは、独学でデザインを実践されてきました。「デザインしたいのは『暮らし方』。こういう暮らしをすれば、きっと世の中はよくなるだろう、と想像してデザインする」。
この宿では、宿泊者と家族のように毎晩食卓を囲んで語り合うそうです。「文化財の家といえども、博物館にしたくない。保存より活用。活かして残していく、ということも目標にしています」
後半では、土壁に関する話題が登場しました。阿部家の壁は、美しい土蔵の壁です。また、東京の直営店では、肩書き「百姓」、75歳の元左官職人の楫谷稔さんが内装工事を手がけました。湘南の総合商業施設を作った際も楫谷さんが出張し、土壁で作ったそうです。「土壁には『ぼろの美』『稚拙の美』がある。ひび割れたり朽ちていったりする様にいとおしさを感じる。ものにも魂がある」松場さんはいいます。
最後に、ご夫婦が餅つきをする、思わず笑みがこぼれる写真と共に松場さんからの言葉で締めくくられました。「餅つきは一人で出来ないのと同じように、二人の息が合わないとこの仕事は出来てこなかったと思います」
一朝一夕ではできない松場さんのお仕事と暮らし。本当に圧巻でした。
久住章さん
名実共に日本を代表する左官職人である久住章さん。最近は滅多に登壇する機会のない久住さんを一目見ようと、全国各地からお客様が集まってくださいました。
前半では、左官の誕生から、左官が日本にどのように伝えられ、どのように発展していったか、歴史と共にご説明していただきました。
現在のトルコ・シリアで生まれた左官技術は、シルクロードを渡り、中国、朝鮮半島を経て日本へ伝わりました。日本で初めて左官が関与した建物は、飛鳥寺と言われています。同時代に、大阪の四天王寺でも漆喰が使われています。
戦国時代、日本各地に城ができ、飛躍的に日本の左官技術が発達します。戦国時代が終わると、千利休などの茶人によって数寄屋技術が全国に広がり、数寄屋建築の中で左官は発展していきます。
著名な数寄屋建築である桂離宮は赤土の壁だったそうです。「これまで、漆喰を塗るのが最高級の技術といわれていましたが、当時、オレンジ色の赤土で壁を塗るというのが流行します。特に金持ちは、四天王寺周辺でとれた赤土で壁を塗る。桂離宮の壁は、京都にありながら大阪の土で仕上げられた。現在見られる赤土の壁の大阪の四天王寺から始まったんです」
明治になり、西洋建築のデコレーションの手法として、左官が西洋建築の担い手になります。また、商人、権力者などを中心に、数寄屋建築の文化も広がっていき、左官の隆盛は戦争が始まる昭和11年まで続きます。
久住さんは「日本の建築の一番良かった時代が昭和11年」といいます。「左官、大工、建具屋、畳屋など、日本の伝統的職業が一番良かった時代でした。明治から昭和11年までに建てられた町並みは、同じようなスタイルで出来ている。漆喰、民家、茅葺きの屋根。町並み保存地区で残っているのは、その時代に作られたものなんです」
そして戦後、経済発展の中、日本の伝統的な職人は、排除され、減少し、技術が途絶えていきます。しかし、久住さんは「今に始まったことじゃない」といいます。「左官屋は時代の節目節目で新しい時代を作ってきたキーパーソンでした。時代を乗り越えて、新しく活躍する場が生まれてくる。なぜかというと、皆同じものが嫌だから。人と違うものが欲しい。いつの時代でも、違うことをやることで、優れたものがうみだされるんです」「日本では左官が減っているけれど、世界的に見たときに、地球上の3分の1くらいは土壁や漆喰に関係した壁の家に住んでいる。まだまだ心配しなくても大丈夫です」
後半では、左官職人の育て方についてお話していただきました。昔ながらの「見て覚える」師弟関係の育成法で、安い賃金を支払っていては、若い職人は付いて来ないと久住さんはいいます。札幌の左官の会社の事例を挙げ、「新人は手本の映像を見ながら、1時間に20回壁を塗れるようになるまで、ひたすら練習する」そうです。「この方法だと、動きにムダがなくなる。集中力が高くなる。身体の動きが俊敏になる。若い職人でも早く技術が身に付いていく。また、練習だとしてもきちんと給料も支払われる。とたんにやる気満々の職人になる」
「伝統的な技術も覚え、新しい技術にも挑戦していく職人を育てることが、これからの大きな課題だと思います」久住さんの力強いメッセージで幕は締めくくられました。